サレー大学訪問記

JI1ACI 中川三紀夫

(注)
以下の文章はJAMSATニューズレターのために書いたものです。サレー大学を訪問したのは1988年ですが、ニューズレターには1989年に掲載されました。
誤字等を修正したほかは、当時のまま再掲します。
   JAMSAT: 日本アマチュア衛星通信協会
   JARL:   日本アマチュア無線連盟
   JAS-1、UoSATなどはアマチュア衛星の名前です

712日からイギリスのサザンプトンで開かれる低温関係の学会に出席するついでにサレー大学に寄ろうと思ってマーティン(G3YJO)あてに電子メールを送ってもらったのは7月になってから。出発の日までに返事が来ることを期待したのですが、結局返事がないままイギリスに行くことになってしまいました。国際電話で都合を確認するという手もあったのですが、出発当日の午前3時まで学会発表の論文を書いているという気のくるいそうなスケジュールではそれもできず、とうとうそのまま出発するはめになりました。

成田発は10日の21時、ヒースロー着は時差の関係もあって11日の朝6時。最初の予定ではサザンプトンに行く途中にサレー大学に寄り道をしようと思っていたのですが、相手の都合もわからないし、サレー大学にどうやって行ったらよいのかもわからない。これが日本なら104で電話番号を調べて電話をするのですが、イギリスで電話番号調べの方法など知るはずもない。結局、その日にサレー大学を訪ねるのはあきらめました。

11日の夕方にサザンプトンのホテルで番号を調べてもらってマーティンに電話すると、今日は不在、明日は1日中いるとのこと。12日の昼に学会の会場から電話すると、会議中ということで、いつ終わるのかと尋ねたら4時に終わるという話。ホテルに帰って昼寝をして5時過ぎくらいに電話をすると、今ちょっといないからこちらから電話します、というわけでしばらく待機。その日の夕方には学会の主催で舟遊びみたいなものがあったのですが、それに行くのをやめて待っていると7時過ぎに電話があってやっとマーティンと連絡がとれたのでした。

サレー大学のあるギルフォードはロンドンから列車で30分くらい、サザンプトンからだとロンドンへ戻る方向で1時間弱の距離です。13日の3時くらいにギルフォードの駅に着きタクシーに乗って10分弱で大学に着きました。歩いても10分くらいと聞いていたのですが、道に迷うのを恐れてタクシーを使うことにしました。教わった建物の教わった階に行き、適当な部屋に行くと若い学生が10人くらい集まっています。そこで、Dr. Sweetingを訪ねてきたと案内を請うとマーティンの研究室まで連れて行ってくれたのでした。彼らは高校生で、大学のサマープログラムで衛星の講習を受けているのだそうです。

マーティンは忙しそうでした。来年打ち上げ予定のUoSAT-Cの製作というプロジェクトを抱えている上に、2週間あとにサレー大学で開かれるアマチュア衛星コロキアム(世界各国のアマチュア衛星関係者を集めた会議)もありなかなか時間がないようでした。訪ねて行った時も別の人と打ち合わせの最中らしく、握手をしてあいさつをすませた後ジャッキーに案内してもらってくれということで、私は彼女に連れられて研究室を見学したのでした。最初、ジャッキーは秘書かなと思ったのですが、実は衛星製作スタッフの中心の一人です。彼女から、これまでのUoSAT-AUO-9)、UoSAT-BUO-11)の開発について説明してもらいました。ちょうどサレーではUoSAT-Cの開発が進行中です。クリーンルームの中にはUoSAT-Cのエンジニアリングモデルがあり、これから組み立てるところだと説明してくれました。コマンドルームにはFO-12のコマンド用の機材も置いてあります。コンピュータによって各衛星がどこを飛んでいるかと表示されているのですが、FO-12ではなく、JO-12またはJAS-1と書かれているのに気付きました。

ひととおり、ジャッキーに案内してもらったあとでオフィスにもどって研究室の人たちとJAMSATのこと、アマチュア衛星などについて話をしました。低軌道衛星であること、デジタル通信の機能を持つこと等、JAS-1が彼らの衛星と共通点が多いということもあるのでしょうが、かなりJAS-1に対する関心は高く、また評価も高いと感じました。

JAS-1bについても質問を受けました。「JAS-1bは基本的にはFO-12と変わらない、少々の手直しがあるだけである。しかし、手直しのために1億円以上の費用がかかる。」と説明すると、「なぜそんなにかかるのか、UoSAT-Cを全部組み上げるのにもそんなにかかりはしない」と怪訝そうです。JAS-1bについてはJAMSATは関与していない、改造をプロの手にゆだねたために多額の費用がかかるのだというと意外そうでした。JAMSATとの間にいろいろのトラブルがあったこと、またアマチュア衛星通信の今後の変化を考えれば数年後にJAS-1bを打ち上げることに技術的な意味は薄く、利用者にとってのメリットも大きいとは思えない、費用は日本内外の新衛星の実現のために使うべきと考えていると説明しました。マーティンはこのへんの事情を理解していましたが、世界の裏側のことですからサレー大学のすべての人がJAMSATJARLの関係を知らなくても無理はありません。

「ならばJAMSATの次のプロジェクトは何か?」というのは自然な質問です。JAMSATのプロジェクトチームはJAS-1の製作で非常に疲れてしまった、彼らは「燃え尽き症候群」から回復しつつあるところである、新しいプロジェクトを始めようという声がやっと出てきたところだ、と説明しました。マーティンからMoriJK1VXJ小原さん)は今何をしているのかと問われ、他の若い人たちとDSP(デジタル信号処理)の実験を始めようとしていると答えました。JAMSATJAS-2のプロジェクトはあるのかという質問には、まだ確かなプロジェクトはないというのが答えです。

コロキアムにはJAMSATの代表は誰か来るのかという質問には、誰も来ることができないと答えましたが、マーティンは残念そうでした。本当はプロジェクトチームのメンバーが参加できれば一番よかったのですが、みないろいろと予定があってだめで、次善の策として私でも出席して国際AMSATの面々にJAMSATの現状を説明できればよかったのですが、出張のついでによそへ寄ることを会社が許してくれそうもなかったので、仕方ありません。もし会社が許してくれても、後述の理由で実際には難しかったかもしれませんが。

と、いろいろと話しているうちに時間がたち、マーティンのもとを辞去しました。ギルフォードの駅まではマーティンが車で送ってくれたので簡単についたのですがそれからが大変。まずギルフォードの駅で列車を間違えた。駅員に聞いた列車に乗って間違えたのだから、私のせいじゃありません。張り出してからすぐに来た時と違う線路の上を走っているいることに気がつきました。検札の車掌が切符を見て変な顔をするので、私は間違えたのだ、どうすればいいかときくと、????(聞き取れない)で乗り換えろという。????とはどこか分からなかったけれど、何度聞いても分かりそうもなかったので、そうかわかったといって、やり過ごす。そうしているうちに〜〜クロッシングという駅があったので、名前からしてこれは乗換駅に違いないと列車を飛び降りるとこれが何と駅員が一人しかいない田舎の駅。駅員が切符を見てまたもや変な顔をするので、私は間違えたのだ、どうすればいいと聞くとギルフォードまで戻れという。それで列車を待って乗り込んでから時刻表をよく見ると、車掌がいった????という駅はサービトンというところで〜〜クロッシングのひとつ先の駅で、もうひと駅がまんして乗っていればよかったことに気付いたのでした。でも、もう列車に乗ってしまったのだからと諦めてギルフォードまで戻りました。こんどはちゃんとウォーキング行きを見つけてウォーキングまでは無事に着きました。しかしウォーキングですぐにサザンプトン行きに乗り換えるはずが、これが来ない。どうやら先に行ってしまったらしいが、次の列車は1時間後でそれまで待ちぼうけ。サザンプトンに着いて、よし駅からホテルまで歩いてやろうと決心したが、道に迷って1時間。結局タクシーに乗ってホテルに帰ったというしまつで、本当なら1時間ちょっとのところを4時間かかったのでした。

 

■付録 【ジュネーブで強盗に遭う】
一応これは付録なのですが、ニューズレターの編集長はどうやらこちらの方を書かせたかったようです(編集注:本人は結構喜んで書いていることが、お読みになるとわかります)。親には「こんな恥かしいことは決してひとに話してはいけない」と申し渡されているのですが、ここで公表してしまいます。今までいろんな人に話しても、誰もお見舞いを持ってこないのが残念です。 

今回の出張も終わりに近付き、最後の目的地ジュネーブに着いたのは729日のこと。夕方6時くらいに街に出てローヌ通りというところを歩いていたらギリシャ人と名乗る男が声をかけてきた。自称24才、名はニコライ。昔、日本や韓国や中国に行ったことがある、韓国や中国の人間は不正直でよくない。その点日本人は正直でよろしい。日本では東京と広島と長崎に行った。今度また日本に行くので、少々ドルを円に換えてくれないかというのでした。ああいいよ、承諾するとドルをホテルに置いてあるので悪いけどホテルまで来てくれないかというのでついていくことにしたのです。

途中で彼はのどが渇いたといって街角で缶入りのファンタを1本買いました。で、これは俺の国の習慣で友達とは分け合わねばならない、ひとりで飲んではいけないのだからお前も飲まねばいかんというので仕方なく1本のファンタを交互に飲んだのです。ホテルはこっちの方だとついていくうちにファンタが残り少なくなって、彼が言うには「もうこれしかないから全部飲んでしまえ。」飲んで23分公園の中を歩いて次に気が付いたのは病院のベッドの上でした。

何の薬かは知りませんが、よく聞くもんですね。だんだん眠くなるとかいうことなしにいきなり寝てしまったようです。病院で気がついてなぜかわからないけど横になっている。なぜかわからないけど腕が痛むので見ると点滴の針が刺さっている。なぜかわからないけど病人の白い服を着せられている。荷物を調べるとお金がなくなっている。ぼうっとした頭で考えるにあの公園で私は寝てしまったのではないだろうか。とするとあのギリシャ人は泥棒であったか。

かばんの中と財布を点検すると日本円と英ポンドとスイスフランが全部やられている。ついでにトラベラーズチェックが2000ドル分とられている。パスポートは無事、クレジットカードも残っているのはほっとしました。スイスフランの入っていた財布には5フラン硬貨が2枚入っているけど私は5フラン硬貨を持っていた憶えはない。これは泥棒が入れたんだな、う〜ん、ギリシャの泥棒にも仁義はあるんだと変なことに感心したり。(日本でもスリの名人は帰りの電車賃は残しておくそうです)

そのうちにコーヒーとパンの朝食が出てきたので、これを平らげました。別においしかったわけでもないけど、あとから考えたらスイスで食べたものってあれだけです。寝ていてもしかたないので、自分の服に着替えてそばのいすにすわっているとそのうちに医者がやってきて、大丈夫か、いったいどうしたんだという。どうやら公園で寝ているところを発見されて担ぎ込まれたらしい。やあ、これこれこういうわけで、もう大丈夫と答えるともう帰ってよろしいただしどこそこに警察があるからそこによって行けとのこと。警察で事情をきかれて調書を作り、そのあとで刑事がホテルまで送ってくれました。

ホテルに帰ると、フロントのおじさんが、やあ大変だったねえ、気分はどうかと心配してくれます。「もう大丈夫。でも親切な泥棒だったね。パスポートは残しておいてくれたし、うん、いい経験だった。」などと答えたものだから不思議な顔をしていました。今思うとあれは薬の影響だったのです。躁状態になっていてちっとも悲しくないのです。報告のために会社に電話しても、東京で驚いているほどに本人は深刻ではありません。理由もなく浮かれているものだから、あいつは事態の深刻さを理解していないと立腹していたそうです。

ホテルには帰ったものの、その時私が持っていたお金は泥棒のくれた10フランだけ。ホテルの支払い等はクレジットカードが使えますが、現金がなくては生きていけません。トラベラーズチェックは再発行してくれるはずだからとトーマスクックの両替所まで出かけていきました。警察の被害証明を見せて、書類を書いて、チェックをくれるかなと思ったら、お前のメモした番号は2桁足りないから再発行はできない。あとで東京のおまえの銀行口座に振り込んでやるからそれでがまんしろという冷たい話。さあ、困った。私はどうして生きていけばいいんだと係に言うと、係は一言。

「アイ ドント ノー」

普通ならここでどん底まで落ち込むところですが、薬の影響で気分が高揚しているから平気。銀行に行ってクレジットカードを掲げて「私はこれでキャッシングサービスが受けたい!」と叫ぶのでした。最初のところでは慇懃に「私どもではお取扱いいたしておりません」てなことをいわれたのですが、ここで引き下がってはならじと「ならどこで扱っているか?」

そこの出口を出て左に行って云々という説明を聞いて飛び出し、もう一度「私はこれでキャッシングサービスが受けたい!」 「あちらの窓口へどうぞ」 やっとこれで現金を手に入れることができたのです。

次の日ジュネーブでの用事をすませ、ロンドン経由で日本に帰りました。あの状態ではやはりサレー大学に寄ってコロキアムに出席するのは無理だったのではないかと思っています。日本に帰って2、3日して反動が来て鬱になりました。たいして重いものじゃありませんけど。

日本に帰って2週間後、スイスから治療費と救急車代の請求が来ました。しめて4万円ちょっと。海外旅行保険が払ってくれることになったので、助かりました。やはり保険には入っておくべきですね。

 2013年の注記